博多券番の歴史
券番とは芸妓の取り次ぎや花代と呼ばれる芸妓の出演料の清算などを行う事務所のこと。
博多に初めて券番が出来たのは、1889(明治22)年、現在の博多区旧奈良屋小学校付近の相生町に相生(あいおい)券番が設けられた。八年後には中洲券番も誕生した。
1901(明治34)年には、当時大料亭がありかねてから券番の設立が望まれていた水茶屋(現在の博多区千代二丁目)に水茶屋券番が設立された。
空前の好景気に沸く大正時代には、新券番、南券番を加えた五つの券番が存在したものの、その後戦時体制で券番は完全に消滅した。大戦後、中洲券番と水茶屋券番が復活し新たに旧券番が派生した。
1985(昭和60)年には、全ての券番が一つにまとまり、博多券番となり現在に至っている。
(平成12年9月27日の西日本新聞朝刊より引用)
芸妓の歴史
そもそも博多に芸妓が登場したのは江戸時代の中頃以降といわれている。
大阪の芸妓が長崎の茶屋などに招かれて客を楽しませたが、長崎での滞在は百日以下と定められていたので、一時博多などで稼ぎ、再び長崎へ戻った。その中から博多に定住する者が出て、それが博多芸妓のルーツになったといわれている。
明治、大正時代には、博多の芸妓はおおらかできっぷがいいとの評判で世に知られ、2,000名を超える芸妓を抱え、料亭も東京の築地や日本橋と並び称された。
昭和初期には、金融恐慌のあおりを受けたが、1937(昭和12)年には884名と昭和期のピークを記録した。
戦後、時代の移り変わりとともに芸妓の数も数十名に減少し、現在、博多券番の芸妓数は22名。
東京から花柳芳次郎師匠、花柳瀧藏師匠、杵屋五三郎師匠、常磐津英寿師匠、藤舎名生師匠、中村寿鶴師匠らを招き、稽古をつけてもらうなど、少数精鋭で芸の精進を深めている。
また、平成12年7月から博多伝統芸能振興会が育成中の半玉(見習)芸妓も、平成14年12月に一名が一本立ち(独立開業)するなど日夜稽古に励んでいる。
(平成12年9月27日の西日本新聞朝刊より引用)